昭和44年06月11日 夜の御理解



 私はこの頃夕食前を泉水の前のベランダのところで、あの夕食させて貰うんですけど、終わったら私必ず、泉水の前の朝鮮芝がずっと植えてございますね。あすこのあの芝の中にある雑草がこう生えますから、それを取ったりまたタバコの吸殻とか、マッチの軸とかと言った様なものを、こうあそこへ捨ててるんです皆んながね。それを私綺麗にま拾わせて頂くんですけれども。信心のこの信心は日々の改まりとこう仰る。
 日々と仰いますからね。私共がもう日々に心がけておかんと、あの朝鮮芝の上が直ぐに汚くなるようなものじゃないかと思うですよね。私今その事を頂いて、朝鮮という事はこの朝の鮮やかと書いてある。信心の心のせっか、例えば朝の御祈念にでもお参りさせて頂いて、心がそれこそ朝鮮芝のように綺麗になってる、生き生きと青々と。そこへ心なしに捨てる人の紙切れがあったり、タバコの吸殻があったりする。または所々ではあっても、雑草がこう芽を出しておると言う様な。
 だからもう日々それこそ日々の改まりが第一と仰いますから、日々にそこんところに心がけておきませんと、もういつの間にかもう雑草が生い茂って手がつけられんようになる訳ですよ。ですから本当にあの、私が夕方必ず心付けさせて頂くように、あの自分の心の上にもその心掛けでおらんといけませんですね。もちろんあの今日私雑草取りながら思った事ですけれども、なかにきない可愛らしい花をつけた雑草があります。四月八日のお釈迦さまの時に使うような黄ない、何とかごご何とかお花というんですか。
 それやらまた赤い、この愛の花というが愛ですね、野愛のような赤い花をつけたのがそこにあるんです。こう取りながらね。ちょっと可愛らしいなと。これは一時ばかりおいといてやろうかと思うようなのもあるんですよ。私共の心の中にですね。例えばよくよく信心で考えれば、それは雑草である事は分かっておるけれども、心にそういう雑草が可愛らしい花をつけておるような場合があります。でそれをあのう人情を使ってです、可愛らしいからおいとこと思うたらもうそれまでです。
 やはり良くよく考えれば、雑草は雑草に違いないのですから、やはり取り除いとかんといけませんです。こんな事は改めにゃいけんと。もう分かっておりながら、それを改めるのには忍びない。と言った様なのがある訳ですね。それからまた色々紙切れを捨ててあったり、タバコの吸殻を捨ててあったり、もうそれが雨に打たれますと実に見苦しゅうなるんですよ。ですからそれをもう片っ端から、その誰か散らかす人があってもいいから、片っ端からそれを拾わせてもらう。
 私共の心の上にです。そう言う様な事で根っからの、自分の汚れではないようなものがです。ちょうど朝鮮芝の上に紙切れが落ちておるように、タバコの吸殻が落ちておるように、様なちょっと拾えば直ぐに拾える、取り除けられるものがあります。そう言う様な事を私は、日々の改まりと仰ったんじゃないかと思いますね。信心は日々の改まりが大事。いわゆる絶えず心を神様に向けておかなければ。本当にあの朝鮮芝の上にですね、もうそこに紙切れがこのくらいのが一つあったら、もうそこの美しさはないです。
 雑草などが点々としてあったらもう、朝鮮芝の美しさはないです。そこでそれを日々の改まりと仰るから、日々それを綺麗に改まらせてもらうことに、精進させて頂くことによってです。私は本当にあのうわゆる、朝鮮ですかね。朝の清々しさというか信心の有難さと言った様なものを持ち続ける事が出来る。今も申しますように芝の中の草をとりながらですね。雑草ながらも可愛らしい花をつけておる場合、あらこれは可愛らしい花だと思うようなことがあります。
 でそういう時に人情をつこうてやはりそれをそのまま、放っておくとそれがとんでもない大きな雑草になってしまうのですから、良くよくそれを見れば雑草である事は良く分かる。いや取り除かなければいけない事が良く分かるのですから、そこんところをひとつ日々の改まりが大事と仰ってるのです。もう日々の改まりに心がけなければ、信心限りなく美しゅうなりましょうなんて言うのはもう、ただ掛け声だけになってしまいますよね。    どうぞ。